『砕月〜イノチ〜』バックストーリー

桜が散り枝に緑がつき始める頃合い、幻想郷の丘の上に一人酒を飲む鬼の姿があった。
既に日は落ちて、空には大きな月が出ている。

今日は博霊の神社で宴会がある。
小さな鬼、伊吹萃香はいつものようにそれに参加しようと神社に向かっていたのだけれど、見上げた月が美しくて、つい一足先に飲み始めてしまったのだ。

萃香は杯の酒に映る月をぼんやりと眺めていた。
ゆらゆらと揺れる酒にあわせて、月もゆらゆらと揺れている。
映る月は月の影。杯を少しかき混ぜればすぐに消えてしまう儚いもの。

酒面(さかも)に揺れるうたかたの月は、萃香に遠い昔の記憶を呼び起こさせた。
それは人が生まれ大人になり、子を成して孫を成し、そのまた孫が子を成すほど昔のお話。

当時の萃香にはいくらか人間の友人がいた。
その中の一人に特に仲のいい少女がいて、月の綺麗な夜は決まって彼女と一緒に酒盛りをしていたものだ。
ちょうど今のように、丘の上で月を眺めながら酒を飲んでいた。
あのときの月はくっきりと美しかったように思う。

どうして知り合ったのか、彼女と何を話していたのかはもう忘れてしまった。
きっと、とるに足らない、たわいもない話で盛り上がっていたんだろう。
だけど、ただ笑ってうなずき合うことが、何にも代えがたい楽しみだったのだ。

そんな彼女は、あるときからぱったりと姿を見せなくなった。
特に会う約束をしていたわけではないけれど、姿を見せなくなった彼女のことが気になり、萃香は一度人間の里に行ったことがある。

鬼は人から恐れられ、嫌われる存在だ。
なるべく里には近づかないようにしていたのだけれど、そのときばかりはどうしても彼女のことが気になったのだ。
里に下りた萃香は、はたして彼女を見つけることができた。

彼女には夫と小さな赤ん坊がいた。
なるほど、彼女は結婚し、子供ができて姿を見せなくなったのだ。

彼女の夫は突然現れた鬼を酷く恐れ、里の人間を集めて退治しようとした。
萃香はせめて一言でも彼女に声をかけようとしたけれど、彼女は申し訳なさそうに顔を背け姿を消した。
萃香は彼女と言葉を交わせぬまま山に逃げ帰り、それ以来、人里に降りることはなかった。

それから幾ばくかの年月が経ったある日、萃香のもとを一人の人間が尋ねてきた。
それは一緒に月見酒をした、彼女の孫だった。
孫は、彼女が萃香を裏切ったことをずっと後悔していたこと、ずっと謝りたかったことを伝えていった。
彼女は既に亡くなっており、いまわの際に残した言葉が伊吹山の鬼に謝りたいということだったらしい。

萃香は思う、鬼と比べて人の一生の短いことよ。

無垢な子であったかと思えば、すぐに知恵をつけ、世に出て行く。
そして、ある者は望みのいくらかをかなえ、ある者はかなえられずに、静かな老年を迎え命を終える。

寿命が短いというのは、生きる速度が速いということ。
人の時間は鬼の時間に比べて、きっと何倍も密度が高いものなのだろう。
朝に起きて、昼に立ち、夜眠るかのようにあっという間だ。

そんな人間は夢や希望をかなえるのに精一杯で、暢気な鬼と共に過ごす時間はあまりないのかもしれない。
全てを終えた夜になら、のんびりと晩酌を共にすることもできるかもしれないが、そのような人間に残された時間はもう少ない。

ともにいた人間達ははいつの間にか姿を消していく。
長く生きるうちに鬼の側に人間はいなくなり、いつしか鬼は物語に詠われるだけの存在となっていった。

萃香は月の映る酒を、喉の奥に流し込んだ。
見上げた月は静かに透明な光を放っている。

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ふと人影が月の光をさえぎる。
空に浮く影は、月明かりを背負い、特徴的な巫女服のシルエットを浮かび上がらせる。

「あんたが宴会に来ないなんて珍しいわね」

博霊の巫女、霊夢はふわふわと浮いたまま話しかけてきた。

「私だってたまには一人で飲むこともあるのさ」

萃香がそう答えると、霊夢は特に興味も無さそうに相づちを打った。

「ふーん、そうなの」

霊夢は静かに降りて、丘の上に着地すると萃香の隣に腰掛けた。

「それじゃあ私もたまには、あんたと二人で飲んでみようかしら。一杯ちょうだい」

「いいよ」

生憎と杯は一つしか持ち合わせていない。
萃香は自分の杯を霊夢にわたし、無言で酒を注ぐ。

「なんかテンション低いわね。こんなところで何してたの」

「月を見てたのさ」

「確かに今日の月は綺麗だわね」

「そうだねぇ」

「ところで霊夢の夢や望みって何だい?」

「なによ、唐突ね」

「いいじゃん。聞いてみたい気分なのさ。鬼は勝負に勝った者の望みを叶えるっていうでしょ」

「別に無いわよ」

「え?」

「望むものは別にないって言ってるのよ」

「そうなのかい?人間はみんな、何かの望みを持って生きてるもんだと思ってたけどねぇ」

「そりゃ参拝客が増えて、お賽銭が増えて、毎日温泉に入れたらいいとは思うけど。夢とは違うわね」

「何が違うのか分からないんだけど。他に望むものはないの?」

「そうね、あんたや他の連中とずっとお酒が飲めればいいわ」

そう言った霊夢は少し照れくさかったのか、おもむろに杯を返してくる。

「ほら、あんたも飲みなさいよ」

月を見上げていた萃香は、地上に視線を戻す。
そういえば、あのときの彼女ともこうして一つの杯で酒を飲んだものだ。

長い年月の果て、再び自分は小さな人間と共にある。

「おーーい!」

ほうきに乗った魔法使いが近づいてくる。
小さな姿は徐々に大きくなり、萃香達の目の前で急ブレーキをかけた。

「何やってるんだよ!もうみんな神社に集まってるぜ。家主がいなきゃ始まらないじゃないか」

早口でまくしたてながら白黒の魔法使い、魔理沙が降りてきた。

「あら、みんな待っててくれてるの?」

「いや、もうみんな始めてるが」

「家主がいなくても、始まるじゃないの」

霊夢は苦笑する。

「萃香もだ。宴会好きは宴会にいなきゃ駄目だぜ」

魔理沙は萃香の方を向くと、理屈になっているのだかなっていないのだか、分からないようなことを言った。
しかし萃香は、何か納得したようにうなずいて、こう言った。

「確かに宴会には鬼がいなくちゃだよね」

さて、そろそろ行こうか。

萃香は立ち上がり、既に神社に向かおうとしている魔理沙の後を追う。
霊夢ものんびりと飛び上がり、三人で夜の空を飛ぶ。

空には丸く優しい月が浮かんでいた。

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博霊神社ではみんなが火を囲み、にぎやかな笑い声をあげていた。
もともとが宴会好きの鬼だ、にぎやかな空気は萃香の気分を自然と高揚させる。

人と妖怪と神が入り乱れる。恐れ忌まわれる鬼すらも楽しませる。

幻想郷は全てを受け入れるのだ。
萃香の古くからの友人、八雲紫はそれを残酷なことだと言っていた。

人を食う妖怪、食われたくない人間。利害にはいつも対立がある。
何者も全てを利することなんてできないのだから、優しさというのは贔屓に他ならない。
遠い昔鬼を退治しようとした人間達は、萃香を受け入れないことで同胞を守ろうとしのだ。

自由で平等で全てを受け入れる幻想郷は、誰も守らず誰にも優しくない。
それはつまり受け入れられば、後は全て自分次第ということだ。

疎になった人との繋がりは、いかなる縁か再びここに萃まった。
しかも今度は妖怪やら神様やら月人やら天人やら、色々なおまけつきだ。

体を伸ばしふと眺めれば、あたりはにぎやかな笑い声に満ちている。
月は先ほどより明るさを増し、はっきりとした光をみんなの上にふり注ぐ。

「今宵はいい月だねぇ」

萃香は感嘆して、声を漏らす。

「物事の境界というのは認識が作るもの。見る者によっていかようにも変わるものですわ」

どこのスキマからわいて出たのか、いつの間にかすぐ近くに紫が立っていた。

「月は見る人の数だけあるの。一人で見る月、二人で見る月、みんなで見る月。どれも違うものです」

「ひょっとして、見てたの?」

「さあ、何のことかしら」

紫はいつものように胡散臭い微笑みを浮かべる。

「まあいっか。紫も一緒に飲もうよ」

「あら、それじゃ一杯頂くわ」

萃香は紫の杯に酒を注ぐ。
注いだ酒には小さな月が綺麗に映り込んでいた。

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